うどん二郎 備忘録

長めの文章はここに上げます。メモ書き程度。

藍と人生ーー映画的・詩的に上質な「夜空はいつでも最高密度の青色だ」について

  モノローグ、スローモーション、クローズアップ、並行モンタージュ、劇中歌、いずれも、ともすれば映画を青くさくさせてしまう技術だけれど、俳優の巧みな演技とあわさることで、それをうまく回避するどころか映画の次元をひとつ上に高めてしまったのだから、原作の鬱々とした雰囲気とは違って、観る者の気持ちを昂らせてしまった。
  ただ街の形を順々に映す鮮やかな色のプリズム、それらを素早くカットしていく冒頭、突然日の丸があらわれて政治的な雰囲気を一瞬帯びるのだけれど、なにもなかったかのようにまたシーンが繋がれていく。ただ、(三年後に来る東京オリンピックを待つ)2017年の東京(渋谷/新宿)が舞台で、とかく「貧困」が社会的な問題にされる若者が主役の位置を占めるという設定を踏まえれば、シーンを追っていくに当たって、映画全体に行き渡らされたその政治性を念頭に置く必要はあるだろう。
  はじめて池松壮亮が出てきたときの、あの気だるそうな感じ。しかし鋭い目は、『枯木灘』や『十九歳の地図』(中上健次)の主人公にどこか似ていた。
左側半分が真っ黒な画面と、抜群に(映画的な)「運動神経」のよい池松壮亮による、左目だけの「演技」によって、主役の身体的な特徴を伝えるところや、松田龍平の死に際、ホースからちょろちょろとしか水が出ないことによって死因を暗示するところなどは、見事だった。
  基本的なところだが、やはり並行モンタージュである。映画的な「近接の原理」によって、二人は出会うのだったし、一度近づいたがために最終的には実家にまで行ってしまった。(これは逆を考えると分かりやすい。並行モンタージュで交互に映された男女がいたとして、同じ街に住んでいる場合、むしろ出会わない方がおかしいでしょう、という話だ)
  変化球だったのは、たばこをふかしながら寝っ転がって電球を見つめる主役の主観ショット、かと思いきやカメラがフィックスされたまま主役が画面に出てきて電気を消すという、あのシーン。(瀬田なつき『PARKS』にも似たシーンがあった)
  それからマンションなのにクラブ状態の一室に苛立つ若い隣人が、堪えきれず壁をどんどんと叩くシーン。構図だけみれば、ネメシュ・ラースローサウルの息子』に酷似していた。
  全体の質を落とすくらいなら、活字にして画面に映せばよいと思っていたモノローグも、なるほど実際に平面に並べてみるとその言葉たち(たとえば「少子高齢化」と「震災」)が”均等にしか”意味(価値)を持ち得ないことを知ると、まあ盛り上がっていいかな、と。並べられた言葉の意味(価値)が均質になるということは、つまりそれぞれ事象の重要度がすべて同じになってしまうということだ。モノローグ(=「パロール」)はここで、差異化の役目を果たす。
  そして「死」のテーマ。いつか(等しく)訪れる死も、本来は人目に晒されないこともあるのだけれど、この映画ではきちんとみんなに弔われるのだし、「仕事中には死ぬな、とみんなに伝えといて」と説く工事現場の責任者も、一応憐れみの気持ちを持っていた。最低限の倫理が、かろうじて保たれていた。
  主役の隣人の死を受けて、ひとしきり弔いの言葉を述べた後、工事現場の同僚は(こんなひどいありさまだけど)「俺は生きてる。ざまあみやがれ」と、決して主役の隣人にむけてではなく、どこかで安逸を貪っている輩に向けて、強く吐き捨てた。終末部の主役は、恋人の「嫌な予感」をなだめるために、「そっか」……「そっか」……と言葉を継ぎ、しかし力強く「まあ任せろ、嫌なことは俺が半分にしてやる」と宣言したのだった。いったい、こう高らかに宣言できる俳優は、池松壮亮以外に何人いるのだろう……? とんでもなくダサいそのセリフが、多分この二人の行く末を祈るように観ていたからかどうかわからないが、光って聞こえた。そしてその二つのシーンを観た者は、同じ数だけ目を腫れさせるのだった。
  テマティックな分析を試みても、この映画には語るべき多くのポイントがある。繰り返される「愛」という一語の「密度」、あるいは「強度」? 「濃度」?「厚み」? 「重み」? なんでもよいのだけど、とにかく幾度とない反復によって質感が変容したその言葉が、(音のとおり)主役をとりまく渋い「藍」色(おもに服)になり、さらには爽やかに哀しい「青」色にせわしく繋がれていき、映画の全体を統一するさまをみて、「青は藍より出でて藍より青し」なんて言っている暇はないと気づかされた。なぜなら(金井美恵子バスター・キートン評ではないけれど)、主役は、それが彼の唯一の方法であるかのように、走って(のちに恋人になる)友達のもとにいったのだから。センチメンタルになる暇などない。若く溌剌とした生気を纏う主役の姿を目にして、きっと彼より年上の者は己の身を憂うだろう。しかし本当は、この「東京」という場で、自らの生きてきた歳月を憂う余裕はないはずだ。まずもって、「東京」にはモラルも救いもないのだが、しかしそれが同時に、かろうじてモラルになり救いとなるしかないような、そんなギリギリの場でもあるのだから。生きるために、速く、動き続けなければならない。「速くあれ! たとえその場を動かぬときでも」(ドゥルーズ)。
  この映画では「青」が特権的な位置にあるが、しかし一方で「赤」もそれに続くぐらい気になる色ではあった。ほとんどコジツケなので括弧内に記していく。
(日本的文化風土において、「赤」からまず想起される慣用句は「赤の他人」だろう。明白な他人、自分とは関係のない人を指すこの言葉が一般的に用いられる一方、同時に赤のイメージは血も想起させる。転じて、「血」は家族的な関係性を示唆する語(血縁関係)でもある。そこで「赤」にまつわる(普通はほとんど問題にならない)この両義性を考えたい。つまり、最も親密な血(赤)の関係になりうるのは、全然関わりのなかったはずの「赤の他人」同士でしかありえないということだ。太古より近親相姦が禁じられてきたことを踏まえれば、それは至極当然のことなのだけれど……。
  とすれば、途中工事現場で主役が血を流してしまったテクスチュアルな必然性もわからなくはないし、恋人の実家に行ったのち、同じ部屋で「募金しよう」と提案されるとき、あまりにも本物の兄妹に似ていたのもわかるような気がする。先ほどの「近接の原理」のポイント、「似たものは近づきあい、近づいたものは似通いあう」ことを覚えておきさえすれば……。日本における「赤」は、二つの層に意味が塗り重ねられている。そしてこの映画における赤い「血」。その血はいつでも最高密度の赤色だ、とでも冗談めかしておけばよいか。)
  終わりちかく、何度も反復されてきた路上ミュージシャンの歌が、でもいつもと違ってスピーカーから流れてくると思ったら、彼女は大成してメジャーデビューを果たしており、音は広告のトラックから聞こえてくるのだった。それを観た池松壮亮の顔である。トラックのスローモーションが陳腐だなと思っていたら、あの顔をされたのだったけど、簡単には忘れられないような表情をしていた。「意味」にまみれた「目の怠惰」(中平卓馬)を打ち砕かれ、寄る辺なく途方もない現実を、しかし嬉々として生きていた。そして横にいた恋人と微笑みあうのだったが、とても可愛らしかった。

  どうせくだらないモノローグの連続なんだろうという偏見を持っていた少し前の自分を愚かだと思うと同時に、単純にああ、映画館で観れてよかったなとも思った。原作より、映画的にも詩的にも、上質な仕上がりだった。あるいは、原作の詩よりも詩的だといえるかもしれない。観終わったあと、目を腫らして映画館を出なければならなかったのは嫌だったけれど、出たら、主役が嫌いな渋谷で雨が降るなか、親子が楽しそうに自転車に乗っていたのもなにかの縁か。それともなにかを伝えるためか。生きることを諦めてしまわぬように、と? いや、とりあえずもっと真面目に職を探せ、と……? そういえば本作の外国人実習生は、日本にほとほと愛想を尽かし、帰国するのだった。主人公の元クラスメイトも、アメリカに行った。意外にも政治色が強かったこの映画を観終えたあとなら、そして、はからずも先のような映画的現実を生きてしまったこの身を信じて、海外で就職するのも、もしかしたら悪くないのかも……?

 

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