うどん二郎 備忘録

長めの文章はここに上げます。メモ書き程度。

SONGS・小沢健二特集の感想

SONGSの小沢健二特集(2017年10月5日)、とてもユニークで素晴らしい放送だった。そういえばオザケンは、「想像力」(『我ら、時』)でも「一番ときめく風景は、新しい目で見る、見慣れた風景だったりする」と言っていた。「既知」のものが「未知」のものに「突然入れ替わる」体験を音楽やことばにするこの稀有な歌手。同じように、私たちの「既知」も「未知」に変わる。
たとえば「天使たちのシーン」の13分半を体験するごとに、このなんでもない生活の中のなにかが、いままで想像もしなかった仕方で、豊かになっていくんだろうと思う。
本当に強度のある作品(文学でも、音楽でも、映像でも)というのは、それに触れる前と後では、世界に対する自分の態度や、自分の中に流れる時間がどこか変わったという感覚があるはず。それらの曲を聴いて時間がゆっくりになって、世界を見る解像度が上がって気づかなかったものに気づいて、そうして自分の使ってる言葉が変わって、朝まだき暗がりで、明日を待てないという不安を抱える人にも優しくなれるとしたら。
「明りをつけて 眩しがるまばたきのような 鮮やかなフレーズ」は、怯える彼ら/彼女らが、賑やかな場所を想像できるよう、歌われる。想像できないとしても、せめて生きることを諦めてしまわぬように……。
でもこの感想は、ちょっと感傷的すぎるかな。

Please don’t baby. Don’t go(!)

スピッツ「子グマ! 子グマ!」と「コメット」(『醒めない』)の擬人法

スピッツの擬人法はクサくなくていい。

「子グマ! 子グマ!」は多分親クマの視点で語られているのだろうけど、たとえば「半分こにした 白い熱い中華まん 頬張る頰が好き」という一節の具体性や、「間違ったっていいのにほら こだわりが過ぎて 君がコケないように 僕は祈るのだ」という部分に見られる(ごく普通の意味での)人間性が、全体の「包容力」を支えてる。
最後の「バイバイ僕の分身」と「君が遠くなっても 笑っていられそう 強がっていられそう」は感動的。
「コメット」は「黄色い金魚のままでいられたけど 恋するついでに人になった」と、あえて最初に、この詞が擬人法を用いていることを明らかにしてる。
続く「押し寄せる人波に 流されないように 夕暮れ ホームへ駆け上がった」で上方に視線を向けさせて、「コメット」の持つ多義性(金魚/彗星)を意識させる。うまく話を逸らしてるっていうのかな。金魚が本来持ち得ない「言葉」への言及があったかと思えば、「切れそうなヒレで 泳いでいくよ 想像より少し遠いとこ」と、(彗星のイメージを同時に伴って)また変身してみせていて、「見えなくなるまで 手を振り続けて また会うための生き物に」という一節で、これまた最初の「ホーム」の多義性(駅舎/家)が浮かび上がるようになってる。
それにしても「可愛らしい戯言に救われた」とか「心が砕けて」とか、惹かせるなあ。一節一節が微妙につながってないのもいい。まあ、それらの「作為」自体がクサいと言われればそれまでだけど……。

エドワード・ヤン監督作品の覚書

「恐怖分子」

強く紹介されたので観た。とても良かった。

格子状の細部(ex.壁や床のタイル、窓、道、縦横に切れ目の入った写真、本棚、さらには原稿用紙......etc)に多く彩られた映画。主役級の位置を占める夫婦の不協和をはじめ幾人もが多様な形で「接触」する大きな筋と、この虚構上の細部が密にシンクロしている。張り巡らされた「格子」の二方向の線と、それらの交点のように、各人は「交わろうとする」がゆえときに激しく衝突して、結末部のような結果になるのだろうか。
もうひとつの重要な細部である(何枚もの)写真が、叙述上の「カットの多さ」に絡んでいると考えるならば、この映画は表象芸術における「並ぶ」こと(「並ばせる」こと)の重要性を十分に示唆しているのではないか。カットとカットが「並ぶ」という連続性。この原理的な視線を忘れないでおきたい。
作品にテマティックな視線を送ってみることもできる。不良少女がカメラマンの青年の家で寝ているとき、くるまれていたのは「赤」の毛布だったし、であるからこそ暗室の「赤」が浮き立ってきて、結末部の鮮やかな「赤」に帰結する。さらに類似的な要素として、縦横に切れ目の入った写真が風にはためくシーンの直後、プールが映されるのは、「波」の比喩だったのだろう。テンポが非常によく、なにより(個人的にとても好きな)北野武の映画にも接続されるような「沈黙」の場面が多く、観ていて落ち着いた。べらべら喋りまくる映画より、こういう説明が少ない映画の方が好きになれる。

 

ヤンヤン 夏の思い出」

人生は辛いことや嘘ばかりだよな〜。誰かと誰かが出会えばすぐさま軋轢が生まれ、子が生まれれば煩わされ、そして死ねば多分誰かしらが悲しむ。それでもなにかに誠実であろうとすることの難しさ。腐らずに、あるいは少しばかり腐っても長くやっていくにはどうしたらいいのか。上品で優しいカメラが、いっときの救いを与えてくれるように思えた。時々怖いけどね。なぜか分からないけど、夜のビルを横に移動して映していくショットに、涙を禁じ得なかった。あと、ちょっとエロいのもいいね。

 

「クーリンチェ少年殺人事件」
完璧だった。
映画は〈すべて〉を語りうる。

 

台北ストーリー」
はじめのカットから「あ、エドワード・ヤンの映画だ」と感じた。他の作品と同様、格子状の細部やつながらない電話、捕まらないタクシー、それから「人生をやり直す」という主題などに、おおいに魅せられた。夜景のシーンで泣けるのはエドワード・ヤンの映画だけ。

『ガタカ』、あるいは「偶然の子どもたち」

今日健康診断受けてたらこの映画思い出しました。前書いた(とっ散らかった)メモです。

(追)終末部、二項の完璧な対比と批評してやろうとする者の眼を涙でいっぱいにしてしまうような悲しさ美しさ! 片方が消え、片方が残る。しかしその残された方を、観る者は「本当に残ったといえるのか?」と問わずにはいられない。悲願の目的を達成した男はそして、母なる「塵」の世界へ帰っていく。2017/3/6

(追)必然性に支配された世界における偶然性とはなにか。
徐々に遺伝子操作が可能になりつつあるなか、かりに映画の裏テーマが「必然性(遺伝子操作)に支えられた世界で、偶然性の未来はいかにつくられるのか」だったとすれば、果たしてこの世界で、優れた子だから愛するのではなく、偶然にもこの子が生まれた、その奇跡に感謝して愛するというような道(回路)はいかに用意されるのか?
ユージーンの両親は前者だったが、ヴィンセントの親は後者だった。けれども彼は(偶然にも)不能になったゆえに(偶然にも)劣った遺伝子をもったヴィンセントに惹かれ才能を託し、役目を終えて死ぬ。これは本当の兄弟関係に似ている。老いた兄が先に死に、弟がそれを追う。

言葉はあまり交わされないが、兄弟関係に似た「なんとなく」の意思疎通があっただろう。非言語的なやりとり。現実にはその手の意思疎通はあまりうまくいくことはない。にもかかわらず、彼らの間では(偶然にも)うまくいった。
稀有なこのやりとりを、何度も思い出したい。
2017/4/22

藍と人生ーー映画的・詩的に上質な「夜空はいつでも最高密度の青色だ」について

  モノローグ、スローモーション、クローズアップ、並行モンタージュ、劇中歌、いずれも、ともすれば映画を青くさくさせてしまう技術だけれど、俳優の巧みな演技とあわさることで、それをうまく回避するどころか映画の次元をひとつ上に高めてしまったのだから、原作の鬱々とした雰囲気とは違って、観る者の気持ちを昂らせてしまった。
  ただ街の形を順々に映す鮮やかな色のプリズム、それらを素早くカットしていく冒頭、突然日の丸があらわれて政治的な雰囲気を一瞬帯びるのだけれど、なにもなかったかのようにまたシーンが繋がれていく。ただ、(三年後に来る東京オリンピックを待つ)2017年の東京(渋谷/新宿)が舞台で、とかく「貧困」が社会的な問題にされる若者が主役の位置を占めるという設定を踏まえれば、シーンを追っていくに当たって、映画全体に行き渡らされたその政治性を念頭に置く必要はあるだろう。
  はじめて池松壮亮が出てきたときの、あの気だるそうな感じ。しかし鋭い目は、『枯木灘』や『十九歳の地図』(中上健次)の主人公にどこか似ていた。
左側半分が真っ黒な画面と、抜群に(映画的な)「運動神経」のよい池松壮亮による、左目だけの「演技」によって、主役の身体的な特徴を伝えるところや、松田龍平の死に際、ホースからちょろちょろとしか水が出ないことによって死因を暗示するところなどは、見事だった。
  基本的なところだが、やはり並行モンタージュである。映画的な「近接の原理」によって、二人は出会うのだったし、一度近づいたがために最終的には実家にまで行ってしまった。(これは逆を考えると分かりやすい。並行モンタージュで交互に映された男女がいたとして、同じ街に住んでいる場合、むしろ出会わない方がおかしいでしょう、という話だ)
  変化球だったのは、たばこをふかしながら寝っ転がって電球を見つめる主役の主観ショット、かと思いきやカメラがフィックスされたまま主役が画面に出てきて電気を消すという、あのシーン。(瀬田なつき『PARKS』にも似たシーンがあった)
  それからマンションなのにクラブ状態の一室に苛立つ若い隣人が、堪えきれず壁をどんどんと叩くシーン。構図だけみれば、ネメシュ・ラースローサウルの息子』に酷似していた。
  全体の質を落とすくらいなら、活字にして画面に映せばよいと思っていたモノローグも、なるほど実際に平面に並べてみるとその言葉たち(たとえば「少子高齢化」と「震災」)が”均等にしか”意味(価値)を持ち得ないことを知ると、まあ盛り上がっていいかな、と。並べられた言葉の意味(価値)が均質になるということは、つまりそれぞれ事象の重要度がすべて同じになってしまうということだ。モノローグ(=「パロール」)はここで、差異化の役目を果たす。
  そして「死」のテーマ。いつか(等しく)訪れる死も、本来は人目に晒されないこともあるのだけれど、この映画ではきちんとみんなに弔われるのだし、「仕事中には死ぬな、とみんなに伝えといて」と説く工事現場の責任者も、一応憐れみの気持ちを持っていた。最低限の倫理が、かろうじて保たれていた。
  主役の隣人の死を受けて、ひとしきり弔いの言葉を述べた後、工事現場の同僚は(こんなひどいありさまだけど)「俺は生きてる。ざまあみやがれ」と、決して主役の隣人にむけてではなく、どこかで安逸を貪っている輩に向けて、強く吐き捨てた。終末部の主役は、恋人の「嫌な予感」をなだめるために、「そっか」……「そっか」……と言葉を継ぎ、しかし力強く「まあ任せろ、嫌なことは俺が半分にしてやる」と宣言したのだった。いったい、こう高らかに宣言できる俳優は、池松壮亮以外に何人いるのだろう……? とんでもなくダサいそのセリフが、多分この二人の行く末を祈るように観ていたからかどうかわからないが、光って聞こえた。そしてその二つのシーンを観た者は、同じ数だけ目を腫れさせるのだった。
  テマティックな分析を試みても、この映画には語るべき多くのポイントがある。繰り返される「愛」という一語の「密度」、あるいは「強度」? 「濃度」?「厚み」? 「重み」? なんでもよいのだけど、とにかく幾度とない反復によって質感が変容したその言葉が、(音のとおり)主役をとりまく渋い「藍」色(おもに服)になり、さらには爽やかに哀しい「青」色にせわしく繋がれていき、映画の全体を統一するさまをみて、「青は藍より出でて藍より青し」なんて言っている暇はないと気づかされた。なぜなら(金井美恵子バスター・キートン評ではないけれど)、主役は、それが彼の唯一の方法であるかのように、走って(のちに恋人になる)友達のもとにいったのだから。センチメンタルになる暇などない。若く溌剌とした生気を纏う主役の姿を目にして、きっと彼より年上の者は己の身を憂うだろう。しかし本当は、この「東京」という場で、自らの生きてきた歳月を憂う余裕はないはずだ。まずもって、「東京」にはモラルも救いもないのだが、しかしそれが同時に、かろうじてモラルになり救いとなるしかないような、そんなギリギリの場でもあるのだから。生きるために、速く、動き続けなければならない。「速くあれ! たとえその場を動かぬときでも」(ドゥルーズ)。
  この映画では「青」が特権的な位置にあるが、しかし一方で「赤」もそれに続くぐらい気になる色ではあった。ほとんどコジツケなので括弧内に記していく。
(日本的文化風土において、「赤」からまず想起される慣用句は「赤の他人」だろう。明白な他人、自分とは関係のない人を指すこの言葉が一般的に用いられる一方、同時に赤のイメージは血も想起させる。転じて、「血」は家族的な関係性を示唆する語(血縁関係)でもある。そこで「赤」にまつわる(普通はほとんど問題にならない)この両義性を考えたい。つまり、最も親密な血(赤)の関係になりうるのは、全然関わりのなかったはずの「赤の他人」同士でしかありえないということだ。太古より近親相姦が禁じられてきたことを踏まえれば、それは至極当然のことなのだけれど……。
  とすれば、途中工事現場で主役が血を流してしまったテクスチュアルな必然性もわからなくはないし、恋人の実家に行ったのち、同じ部屋で「募金しよう」と提案されるとき、あまりにも本物の兄妹に似ていたのもわかるような気がする。先ほどの「近接の原理」のポイント、「似たものは近づきあい、近づいたものは似通いあう」ことを覚えておきさえすれば……。日本における「赤」は、二つの層に意味が塗り重ねられている。そしてこの映画における赤い「血」。その血はいつでも最高密度の赤色だ、とでも冗談めかしておけばよいか。)
  終わりちかく、何度も反復されてきた路上ミュージシャンの歌が、でもいつもと違ってスピーカーから流れてくると思ったら、彼女は大成してメジャーデビューを果たしており、音は広告のトラックから聞こえてくるのだった。それを観た池松壮亮の顔である。トラックのスローモーションが陳腐だなと思っていたら、あの顔をされたのだったけど、簡単には忘れられないような表情をしていた。「意味」にまみれた「目の怠惰」(中平卓馬)を打ち砕かれ、寄る辺なく途方もない現実を、しかし嬉々として生きていた。そして横にいた恋人と微笑みあうのだったが、とても可愛らしかった。

  どうせくだらないモノローグの連続なんだろうという偏見を持っていた少し前の自分を愚かだと思うと同時に、単純にああ、映画館で観れてよかったなとも思った。原作より、映画的にも詩的にも、上質な仕上がりだった。あるいは、原作の詩よりも詩的だといえるかもしれない。観終わったあと、目を腫らして映画館を出なければならなかったのは嫌だったけれど、出たら、主役が嫌いな渋谷で雨が降るなか、親子が楽しそうに自転車に乗っていたのもなにかの縁か。それともなにかを伝えるためか。生きることを諦めてしまわぬように、と? いや、とりあえずもっと真面目に職を探せ、と……? そういえば本作の外国人実習生は、日本にほとほと愛想を尽かし、帰国するのだった。主人公の元クラスメイトも、アメリカに行った。意外にも政治色が強かったこの映画を観終えたあとなら、そして、はからずも先のような映画的現実を生きてしまったこの身を信じて、海外で就職するのも、もしかしたら悪くないのかも……?

 

『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』 2017.11.15ブルーレイ&DVD リリース!